ラジオの現場から~樹木希林さん追悼
樹木希林さんが9月15日に75歳で亡くなられた。
数多くのテレビドラマや映画など、かけがえのない演技とその存在感で
観客を魅了した希林さん。
ほとんど知られていないがラジオでも素敵な仕事をされた。
希林さんとは三度お会いした。最初はある映画祭の打ち上げ。
紹介してくれたのは彼女と多くの仕事をしてきた阿武野勝彦東海テレビプロデューサー。
東海テレビが制作して希林さんが「風が吹けば枯れ葉が落ちる・・」と魔法のようなナレーション
を詠んだ映画『人生フルーツ』は24万人を越える大ヒットとなった。
阿武野さんはふざけて私のことを「兄です」と希林さんに紹介したため、
私も「弟がご厄介をおかけてしております」と深く頭を下げた。
すると希林さんは「あら?お顔は似てないわね。本当にご厄介ばかり。
安いギャラでこきつかわれて(笑)」
そのまましばらく兄になりすましながら、楽しく一緒にお酒を飲んだ。
二度目は、私が脚本を書いた火曜会(地方民間放送共同制作協議会)
60周年記念ラジオドラマ『神田神・保町 レコード屋のおかみさん』の収録現場。
神保町で中古レコード屋を続けた故・井東冨士子さんのエッセイを土台に作られたドラマで、
希林さんには、おかみさん=井東さん役の語りをお願いした。
希林さんは約束の時間よりかなり早く、一人でふらりと録音スタジオに現れた。
「脚本は事前に読まないから送らなくていい」と言われていた。
その場で初めて私の拙い脚本を声に出されて読まれ、しっくりこない部分だけ質問をされ、
私は手直しをした。
収録が始まるとすぐそこに、ちょっと伝法な江戸弁を使うレコード屋のおかみさんが立ちあらわれた。
そして最後にスタッフクレジットを読んでいる時、その秘密が彼女から
「不思議なご縁で、私は神田神保町で生まれ育ちました」と語られた。
希林さんの生家は神保町で喫茶店を営み、井東さんのレコード屋とはご近所だった。
番組スタッフは皆勉強不足で、彼女の経歴を記したウィキペディアひとつ見ていなかった。
ドラマが取り上げた関東大震災、東京大空襲など井東さんの家族の歴史は、
希林さんが育った町の歴史でもあったのだ。
誰もがこのドラマの成功を確信した瞬間だった。
その確信はいつしか現実にかわり、番組は第44回放送文化基金ラジオ部門優秀賞を受賞した。
じつは脚本に一か所「遊び」を書いた。希林さんが出演した『寺内貫太郎一家』で、
沢田研二のポスターを前に「ジュリーッ!」と叫ぶ場面をGSブーム紹介場面に挿入した。
彼女は楽しそうに身もだえした。
三度目にお会いしたのは、今年7月の放送文化基金賞表彰式。
体調がすぐれず杖をついていらした希林さんだったが、スピーチでは元気よく登壇され
「この番組は予算はない、スタジオもひどいとこでね」と語り始め、場内は大爆笑に包まれた。
希林さんは所属事務所はなくマネージャーもおらず、連絡は留守番電話とFAXだけ。
またさりげなく現場では気をつかわれた。
収録時の弁当もわざわざ「皆さんと同じ物を」と事前に注文され、お菓子を残すこ
ともスタッフには許さなかった。
希林さんのラジオでは最期の仕事となった『神田・神保町 レコード屋のおかみさん』は、
全国のラジオ局で10月から12月にかけて再放送する。
詳しくは火曜会のHP=radio.or.jpを御覧下さい。
9月30日告別式が希林さんと会う最期となった。
遺された言葉「おごらず、他人と比べず、面白がって平気に生きればいい」
という人生に近づいていきます。
素晴らしいラジオドラマを一緒に作れて幸福でした。
放送作家 石井彰
出典:放送レポート275号(2018.11.12)